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観光案内

湖東エリア

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玄宮園

彦根城の北東にある、大池泉回遊式の旧大名庭園。彦根城天守閣や茂った木々を背景に、大きな池に突き出すように臨池閣が立ち、築山には鳳翔台があります。この鳳翔台は、彦根藩の賓客をもてなすための客殿で、ひなびた趣のある建物。樹木・岩石・池を巧みに配し、池の周りに、湖南省洞庭湖の瀟湘八景にちなんで選ばれた近江八景、竹生島や沖の白石などを模して造られており、情趣のある庭になっています。

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夢京橋キャッスルロード

彦根城内にある京橋は、一千石以上の武士が居住していた第二郭(かく)(内曲輪(うちぐるわ))と中級以下の武士や商人、職人が居住していた第三郭(かく)(内町(うちまち))をつなぐ橋でした。 現在「OLD NEW TOWN」をテーマに本町通りに沿って商人屋敷の良さを生かした江戸時代感覚の新しい建物に建て替えらた喫茶店やブティック、一般民家も江戸時代の街並みに再現され「夢京橋」という名前で親しまれています。

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湖東三山 西明寺(池寺)

湖東三山の一つに数えられる天台宗の寺。平安時代、仁明天皇の勅願により三修上人が開山したと伝えられます。本堂は、鎌倉時代初期に建立された建造物で、釘を一本も使わない純和風建築です。国宝第一号に指定されています。三重塔は、総檜の優美な姿の塔といわれ、初層内部に極彩色で金剛界の三十二菩薩など鎌倉時代の極楽浄土が描かれており、国宝に指定されています。また、紅葉の名所としても有名ですが、冬桜の一種、不断桜があり、紅葉と桜を同時に見ることができます。

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湖東三山 金剛輪寺

湖東三山の一つで、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。源義経が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれます。本坊の南・東・北の三方を囲むように庭園があり、心の字池が3庭を結んでいます。3つの庭は、作庭された年代がそれぞれ異なる池泉回遊・鑑賞式の庭園で、それぞれが名勝に指定されています。桃山時代に造られた庭は、「石楠の庭」と呼ばれています。

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天寧寺

11代藩主直中が自分の過失で手打ちにした腰元と初孫を弔うために建立したお寺。京都から呼び寄せた名工によって作られた五百羅漢には必ず会いたい人の顔が見つかるという伝説もあります。館内には井伊直弼の供養塔が建ち、桜田門外で襲撃された際の「血染めの衣装」が収められています。

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龍潭寺

井伊家の菩提寺で、奈良時代行基(ぎょうき)によって静岡県井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院を井伊直政が佐和山城主になったのを機に、佐和山山麓に移築されました。江戸時代初期に建立された方丈は、彦根にある数少ない方丈建築の1つです。寺院裏山の墓地には井伊直弼の母の墓や、直弼の側室の里和の文塚など多くの史跡が残っています。龍潭寺には禅宗の大学寮があり、その中に園頭科(えんずか)がありました。これが造園専門学校の始まりとされています。

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多賀大社

多賀大社は「寿命長久」「縁むすび」の御霊徳高く、古くから「お多賀さん」と呼び親しまれた淡海国(近江国)第一の大社です。多賀大社が文献にみえるのは、和銅5年(712年)に撰上された"古事記"で、「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」とあります。社伝によると、神代の昔、伊邪那岐大神は本社東方の杉坂山に降臨され、麓の栗栖(くるす)の里でお休みの後、多賀にお鎮まりになったと伝えています。

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佐和山城

慶長5年(1600年)「天下分け目の戦い」といわれた関ヶ原合戦の豊臣方の総大将石田三成が、東国へのにらみをきかせた城趾で、佐和山城は標高232m、この頂上に五層の天守閣がそびえ、その偉容を誇っていたといわれています。しかし関ヶ原の敗戦に次ぐ落城後は、建物・石垣などすべてつぶされ、あるいは運び去られて城趾はほとんどその面影をとどめず、わずかな地形からありし日の城の構えをしのぶことができるに過ぎません。

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足軽屋敷

辻番所を備えた足軽屋敷が残るのは、江戸時代に彦根藩足軽善利(せり)組の組屋敷約七百戸が置かれた地域(東西約750m、南北約300m)。この地域には現在も城下町特有の「食い違い」や「どんつき」と呼ばれる街路が残っていますが、約五年前に県立大などの調査で、屋敷の残存戸数は五十戸前後と判明、以後も建て替えが進み、減少しているといわれています。

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中山道宿場町

中山道63番目の宿場町で、江戸時代から続く赤玉神教丸の有川家をはじめ旧街道の面影を残す町並みが残っています。山道の宿場であるとともに、多賀大社の門前町としての役割を果たしてきた高宮宿。 昔ながらの提灯屋や路地などに旧街道の面影が残っています。

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